2002年 2月18日


状態、状況

広尾病院ICUの個室にいる。
頭蓋骨抜け、脳挫傷頚髄損傷で、意識不明の重体唾も出ず、口が渇いて唇もカサカサ。
強心剤を山ほど入れ、口から人工呼吸器を入れ、ハローベストを着て、おむつを当て、尿道から導尿、その他諸々色んな管が付いている。褥瘡対策の為、1日何回も体位交換をする。2・3日に1度看護士さんに体を拭いてもらう。
1日4回の面会だが、感染症の心配があるので面会者が限定される(MMさんのみ)

新しい事     今回が最後の事



あまりにもかわいそうな状態なので写真はありません




重要な事

主治医の先生より現状の説明があります。


生き残れる可能性が30〜40%位出てきたので、本格的に治療をすることにします」との事。



この頃の俺の状態は、
・声を掛けると目を開けることが多くなった
・口をもごもごさせた
など。





数人の友達俺には会えないのに、面会を終えたから俺の状態を毎日聞きに来てくれました。

俺の状態を聞き、一喜一憂して帰ってく姿親たちに大きな力を与えてくれました。


続けて来てくれたのは丸1週間が断る2月24日まで続きます。





目をパチパチ開けたり閉じたりします。





2月25日 主治医の先生から「まだ危険な状態だが、

生き残る可能性が五分五分の可能性になってきた」と言われます。




強心剤の量が、悪い時の1/5になってきたので今週中には強心剤を使わなくてよくなりそう」と、話があります。




目を開けて 閉じて 上を見て  との呼びかけに反応して、ちゃんと目を動かします。





3月2日 主治医の先生から「血圧も安定して薬も最低限の量ですんでいるので、ポストICUに移す」と、話があります。

しかしポストICUが満室の為、もうしばらくICU空き次第入室の予定です。





誰のCDが聞きたいか?などの問いにまばたきで答えますが、本当に答えとしてのまばたきかは誰にも分かりません。

面会が終わりみんなが帰る時寂しそうな顔をします。





3月8日 気管を切開して喉から人工呼吸器を入れる手術をします。

術後主治医の先生から「少し大変だったけど できました。これで本人も楽になったでしょう。転院の話も進めてください」と、話がありました。


この状態で転院って・・・





話しかけてると、舌を出したり口をもごもごさせたりします。
顔を拭く時タオルを近づけると目をつぶります。
写真を見せると、見ている感じです。


目は見えているようです。











その他の出来事

人工呼吸器赤いランプが付くと吸いすぎで肺が破裂する恐れがあり、オレンジランプが付くと少しでも自発呼吸があるか人工呼吸器に水がたまってしまってるかのどちらかです。


始めのうちはランプが付くと喜んでいました時には無知も力になるんですね・・・





2月21日 痰を吸引しても30分〜1時間でまたたまります。





2月25日 TおばちゃんKさんと連絡を取った時Kさん「明るい光が見えてきたから、希望を大きく持って応援してあげてください」と言ってくれた、との事です。





2月26日 事故当初 入院した時にいたベットの横のベットに移動します。





TおばちゃんYさんKさんを信用してないワケではありませんが、モリノスさんに確認に行きます。

Tおばちゃんはまだ何も言ってないのに、部屋に入るとモリノスさん「甥子さんはすごい事故でしたね」言われ、驚きます。




その後、遠隔で俺を見てくれ

「1年目は怪我を治す、

2年目は機能が繋がり始める、

3年目は本人も回りも

ビックリする程良くなる」
と言ってくれます。





バイク便の会社の人達が千羽鶴を折って、持ってきてくれます。


両親は嬉しかったが「こんな大きなものICUに持ってけないし・・・」と困っていると、

「俺が持ってく」ICUの病室まで持ってきてくれます。
バイク便の会社の人達が折ってくれた千羽鶴





3月6日 主治医の先生から「完全ではないが、かなりの確率で良いでしょう。転院先を検討されてください。戦後3人目の生存者になるでしょう」と、話があります。

ここでも もう転院の話か・・・・・





3月8日 MMさんの3人で俺の住んでたアパートを片付けに行きます。

この時点では俺は死ぬ予定なので、俺の荷物は遺品ということになります。





1日4回 1回数十分の面会ですが、毎日MMさんは来てくれて友達もかわるがわる毎日何人も来てくれます。









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